正確には設楽原とすべきか。
この戦いはよくわからない事が多いらしいのだ。
3段打ちと言うけども、鉄砲は一説には3000しかない。
3段打ちで、1000個相当の鉄砲を連射したところで、
1万5千の鶴翼に近い陣を狙い撃てるはずがない。
そして、武田軍が柵の向こうに鉄砲構えている相手に
何ら防御手段を持たずに突っ込むわけもない。
この間読んだ新田次郎の武田勝頼では、
佐久間信盛の偽内応を信じたためとなっていたが、
個人的には単なる兵数の差だと思う。
35000に15000で真正面から突っ込んでいってそうそう勝てるものではない。
仮に、5000人の犠牲で10000の敵を倒したとしても、
25000対10000となって、割合的にはより不利になるばかりである。
(奇襲なら別)
この差を生んだのが、動員できる兵力の差だと思われる。
甲斐・信濃・西上野、駿河、遠江で20000から30000、
一方、織田軍は尾張・美濃・近江・伊勢だけで60000動員できたそうだ。
本願寺対策に半数残してもおつりが来る。
結局、人口が多い尾張と美濃を統一した時点で、動員兵力を考えると
織田信長が圧倒的優位にたったというのが私の持論である。
騎馬隊が強かったと言っても、槍を並べて突きかかられたらたまったものではない。
馬をつけばそれまでだ。
桶狭間から美濃攻略まで実に7年
翌年に上洛し、長篠の合戦まで7年なのだが、
その間に獲得した所領は美濃の数倍にも及ぶ。
戦は兵力が基本なのだ
だと思う。
であれば、何故突っ込んだのか?
これも織田との国力の差では無かったか?
武田は長期の対陣に耐えられるだけの金がない。
だが、ここで甲斐に引いてしまうと、下手をすると駿河くらいまで失ってしまう。
そこで、一か八かの決戦に挑むしかなかった。
(でも、それなら山中を通って背後に出ようとしなかった理由がなぁ・・・)
考え直そう。
2010/02/22に考え直した。
あれだけの武将が討ち死にしたと言うことは、
かなりの確率で武田軍が織田・徳川軍に包囲されたという事になる。
そこで、注目たのは長篠の合戦図屏風である。
織田軍が柵の前に進出している描写がある。
これは、すなわち柵の前に囮がいたと言うことではないだろうか?
柵の前に部隊が出て、武田が攻撃をかける。
もしくは、武田軍が退却するそぶりを見せて織田軍を誘い出したのかもしれない。
どちらにせよ、武田が織田の中心部に突撃したという事。
敵兵は柵放棄して逃げる。追う武田。
しかし、そこで左右から鉄砲隊が伏兵として出現、
退こうにも、後ろには柵があるので迂回が必要
前は敵が反転、左右は鉄砲、すなわち大混乱である。
戦法としては島津家得意の釣り野伏になるのだろうか?